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言葉で傷つけないために

「言論の自由は思想の自由よりテリトリーが狭い」

僕が大好きなアニメのセリフの一部です。

 

実生活のレベルでもこれは多分正しくて、僕自身はこれを肝に命じて日々生活しています。

言論とか思想とか言ってしまうと小難しいですが、要は考えるのは自由だけど、言葉にするときには気をつけようという当たり前のことです。

 

でもこの当たり前が結構難しいと感じます。

誰もが日々色々なことを考えています。そしてその中の一部を言葉にします。独り言のこともありますが、言葉にするときは大体話相手がいるときです。文章にするときだって、誰にも見せない日記でなければ誰かに読んでもらうために書きます。

思ったことを自分の内面でくちゃくちゃ考えているうちは誰も傷つけません。

でも言葉として外に発してしまうと、自分にその気が無くてもそれは誰かを傷つける刃になるかもしれない。

そして一度出した言葉は簡単には引っ込めることができないのです。

 

歯に衣着せぬ物言いを自分のアイデンティティとする人もいます。

それを否定するつもりはありません。

でも、そのズバッと言い放った言葉は誰かの心を傷つけているかもしれない。

ズバッと言える人はなぜそんな言葉で傷つくのか理解できないのだと思います。

 

僕は子供の頃は内向的な人間でした。そして鼻炎があり、鼻が詰まっていました。だから口を開けて授業を聞いていました。

小学校4年生のとき、担任の先生が三者面談で母親に、

「無口で授業中も口を開けてぼーっとしとるから、白痴の子かと思ってましたわ。テストの点が良くてびっくりです」

と言ってガハハと笑いました。

先生は褒めたのかもしれない。

でも僕は白痴という言葉を辞書で引いて傷つきました。

それからも、基本的には優しく、陽気な人でも、ときに僕はその人たちの発する言葉で傷つくことがありました。

なぜいつも仲良くしている人々がたまに刃を向けてくるのか、そしてそれを気にせずその後何もなかったかのように接してくるのか、子供の自分には理解ができませんでした。そして、その場で反論して喧嘩することも、後から傷ついたことを伝えることも内向的な自分にはできませんでした。傷は自分の中で癒えるのを待っていました。

 

でも高校で不登校になって、孤独に考える日々を越えたら、結局傷つくのは自分の捉え方次第ということに気づきました。

それからは何か言われたとしても、それを真正面から受け止めてうじうじするのでは無く、なるべく前向きに昇華させることができるようになりました。開き直ったと言っても良いのかもしれません。

でも、多分、世の中には子供の頃の僕のように、誰かの強い言葉を受け止めることが得意じゃなく、傷つきやすい人が沢山いると思うのです。

 

だから、僕自身は誰に対してもなるべく傷つけないように、言葉を選んでお話をしようと心に決めています。

誰も傷つけない。というのは綺麗事です。多分僕も誰かを傷つけて生きています。

でも、できる限り、自分の努力が及ぶ範囲で誰も傷つけないで生きていくことができたら良いと思っています。

長嶋 理晴 | - | 02:31 | comments(0) | - |
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